“Content is King” は終わるのか〜ブログへの原点回帰

思考メモ

1996年、ビル・ゲイツが “Content is King(コンテンツ・イズ・キング)” というエッセイを発表した。インターネットによって情報を届けるコストがゼロになる。そうなれば、良いコンテンツを持つ者が勝つ。そんな主張だった。

原文の趣旨は「インターネットで本当に金を生むのはコンテンツだ」という話だったが、やがて「良いコンテンツを作れば人が集まる」という意味で広く使われるようになった。

そして実際にそうなった。ブログ、SNS、YouTubeと、個人が発信できるメディアが増え、コンテンツを作れる人が影響力を持つ時代が来た。「発信の民主化」だ。しかし今、AIによって情報を作るコストもゼロに近づきつつある。

「発信の民主化」の次に来たのは「生成の民主化」だ。届けるコストがゼロの世界に、作るコストがゼロのコンテンツが大量に流れ込んでいる。

こうなると、コンテンツの供給は実質的に無限になる。供給が無限なら、コンテンツそのものの価値はゼロに近づいていく。

メディアにしても、検索結果にしても、AIが書いた「そこそこ良い記事」が溢れかえる。キュレーションで選別しようにも、その選別自体をAIに頼ることになり、最終的には「AIが書き、AIが選び、AIが届ける」という人間不在の循環に向かっているように感じる。

では “Content is King” は終わるのか。

終わるのはコンテンツそのものではない。終わるのは「集客のためのコンテンツ」ではないだろうか。

SEO対策のために書かれた記事、バズを狙って量産されたコンテンツ、アテンションを集めることが目的の発信。こうした「集客装置としてのコンテンツ」は、AIが最も得意とするところであり、真っ先に置き換えられる。コンテンツだけで稼ごうとするモデルは、AIによって無効化されていくだろう。

一方で、実践や体験に裏打ちされた考察、つまり「活動の記録としてのコンテンツ」は残る。実際に何かをやった人が、その過程で考えたことを書き残す。そこには、AIには生成できない固有の文脈がある。同じテンプレートで量産できないし、時間が経っても価値は減らない。むしろ後から振り返ったときに意味が増すことさえある。

つまり大事なのは、コンテンツの質そのものよりも、「誰が書いているのか」であり、さらに言えば「その人は何をしているのか、何を為したのか」だ。コンテンツの裏側に実体のある活動があるかどうか。実力や実績を伴う発信だけが、信頼されるものとして残っていくのではないか。

そう考えると、これまでのコンテンツマーケティングの常識は逆転しないか。できるだけ多くの人に届けるための最適化、つまり集客のテクニックに注力するのではなく、実体のある活動に集中して、その記録を淡々と残していく。欲しい人に着実に届けばそれでいい。

この先さらにAIによるマッチングの精度が上がっていけば、プロモーションのテクニックなしに、必要な人に必要なコンテンツが届く世界がありうる。それはまだ仮説に過ぎないけれど、もしそうなるのであれば、それは実に健全な状態だと思う。

考えてみれば、ブログとは元々 “Web Log”、つまりウェブ上の記録だった。自分の考えや活動を、未来の自分のために書き残しておく場所。それがSEOやソーシャルメディアの時代に「集客装置」に変質していった。AIがその集客装置としての役割を終わらせるなら、ブログは本来の姿に戻ることになる。

“Content is King” の終焉は、ブログの終わりではなく、ブログへの原点回帰なのかもしれないな。

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