一周回って、また自分の手でキーボードを叩いて文章を書いている

思考メモ

なんだか最近は、一周回って自分の手でキーボードを打って文章を書いている。そういえば出始めの頃からAIを使って文章を書くのを試してきた。

最初のうちは全然だめだった。結局、自分で書いた方が早いし、品質も良かった。書かせることは諦めて、校正とか誤字チェックとかに使っていた。

段々と性能があがって、短めの文章なら頼んでも良いかという感じになった。適当なメモを渡しても、それなりの文章が書けるようになった。

それでも、長い文章は難しかったし、自分らしい表現は無理だった。

次に取り組んだのが、協働スタイル。構成を練るところから往復しながら、何度も書き直しをさせて、文章を組んでいく形。一定の段落ごとに書いていく感じはできた。

そうこうしているうちに、長文を読み込めるようになった。そこで、自分のブログを全部、読み込ませてみると、それなりに自分らしい文章を書いてくれるようになった。

ここで長年のブログを書いてきたことが活きた感じがする。公開されたブログなので、自分が著者であることを明示すれば、それまでの思想を前提とした文章が書けるようになった。

そうすると、書きたいテーマだけ与えれば、それを元に、いくつか構成案を考えるので、そこから選ぶ。出してくれた選択肢から選んだら、文章を書いてもらう。

書いてもらう際に、自分なりのエピソードなどを入れたいと指示して、ヒアリングをしてもらう。AIからの質問に答えていくと、それが文章になる。

自分のブログをもとに、新しいブログ記事が書かれていく。もしかすると私はいなくても、今後も再生産し続けるのではないか、という気がしてくる。それも良いか、と思う。

ただ過去を学習したAIは、それなりに「らしい」文章を書くのだが、それは過去の自分の考えでしかない。書かせてみたものの、自分では面白いとは思えない。

しかも、こちらも文章を書き続けてきた身としては、読み手としても経験値がある。

叩き台としての文章としては良いけれど、どうも自分としては気持ちの悪い表現も残る。その都度、学習させていっても、どうしてもAIは常識側に引っ張られている感じがする。

そう、段々とAIは賢くなった結果、とても優等生で、常識的な知能になってきている感じがする。ただの印象かもしれないけれど。一般的に喜ばれることを書こうとしがちだ。

なんだか違うんだよなーと思いながら、修正しているうちに、結局は全部書くことになっている。

もしくは、ざっと書いて渡したメモをもとに文章を書いてもらっても、なんだか小綺麗ではあるけど、勢いがなくなってしまっている。

だから、結局は、自分の手で書いたメモを、そのままブログやSNSに載せるようになった。けど、その方が沢山の反応をもらえてる気はする。

読むのが人間なので、雑なままでも、言葉足らずでも、綺麗な文章でなくても理解してくれる。もっと読んでくれる人間の知性を信じて良いのではないか。

果たして、人間が書いて人間が読む文章の間に、AIを介在させる意味はあるのだろうか。

そういえば自分にとって「書くこと」は思考を深めるための時間でもあった。書くことで考えが整理された。それは自分のための豊かな時間の使い方だ。そんな贅沢をAIに渡してしまうなんて。

では今の私にとってのAIはどんな役割なのか。過去の自分を覚えてくれている存在で、思考を促進するためのアイデアを出してくれる存在で、最初の読者として感想をくれる存在。

まぁ、すぐにまた変わるだろうけど。

経済合理性だけではエンジニアを育てることは難しい時代にどうするか

思考メモ

この記事、会員登録部分までぜひ読んでほしい内容だった。
『まつもとゆきひろが危惧する、ジュニア不要論の先に広がるIT業界「焼け野原」』

この記事のまつもとさんの意見、本当にそう思う。私も同様の危機感は感じている。

とはいえ、事業会社を経営する立場としては経済合理性を考えると、内製のエンジニアチームでのジュニアの育成は説明可能な妥当性がなくて苦しい。

なぜなら、ジュニアの育成は、半年や1年では成果は出ない。新人研修やっただけでできる仕事ではないのがソフトウェア開発というものだから。

そして、ジュニアがいてもチームの生産性は高くなるどころか、育成コストを考えると全体の生産性が下がるのは目に見えている。そこに、さらにベテランとジュニアのAI活用による格差が広がっている。

今は転職が当たり前になった業界で、それ自体は良いこととするならば、数年かけて育成に時間と労力をかける判断に踏み切るのは簡単なことではない。

そうした中でも、ソニックガーデンではジュニアからの育成に取り組んでいる。大卒の新卒に限らず、未経験の第2新卒で他業種から転職してきた若者たちを受け入れて、徒弟制度で育てている。

もちろん短期的な経済合理性はないけれど、「いいソフトウェアをつくる。」という理念があるので、その理念に沿った活動として取り組んでいる。理念合理性と呼んでいる。

最近は、中学生に向けたプログラミング部活動「セタプロ」や、大学生の就業体験を兼ねた訓練「トレセン」なども取り組んでいる。

一生懸命にソフトウェア開発の作品作りに熱中して、そのために学んで練習を重ねている姿を見て感じることは、AIがどうなろうと、ここで頑張ったことは無駄にはならないだろうな、と。

効率だけを追い求めた先に「焼け野原」が広がるというのなら、効率やコスパという言葉で片付けられないような活動をするしか、肥沃な大地には育たないのではないかな。

ソフトウェアを作る人数は、今よりも全然少なくて済むようになる

思考メモ

生成AIでソフトウェア開発がなくなるというよりは、一人で出来る範囲と量が増えるので、一つのソフトウェアを作るための人数が今よりも全然少なくて済むようになる、という感じなのでは。

(これは過去の技術革新で起きてきたことでもある)

先日、400人が投入されている大規模開発プロジェクトを目の当たりにしたが、ああいうのこそ、10分の1の人数で解決できそうだし、解決できるという世界にしていきたい。

「立派な会社のシステムは、多人数でないと作れない」というのは思い込みだと思っている。

以前から言い続けてきたが、ソフトウェア開発は「人数」ではなく「難易度」の問題である。同じ人数で良いが、熟練度の違う人材を集めた方が良い。

巨大なシステムは難易度が高く、熟練の人材が必要で、小さなシステムは難易度が低いので、経験の浅い人材でも出来る。

同じソフトウェアをつくるのに、「熟練の3人」と「初心者の30人」、どちらが速く・良いものを作ることができるのか。リアリティーあるのは、その両者を混ぜた体制だが、それでも「熟練の3人」が勝る。

人数は多くしない方が生産性は高い。

人が増えても速くならない。これは今も昔も変わらない真理。

人海戦術から解放されるなら、エンジニアは少ない人数で全体を把握し、ユーザーに近いところで、分業せずに「自分の作品」として作れるようになる。これこそがソフトウェア開発の楽しさであり、エンジニアにとっての「福音」ではないか。

生成AIで、コードを書くことがなくなって寂しいというのは本当か?タイピングしたかったのか。しょうもないバグを修正したかったのか。本当にしたかったのは、優れたソフトウェアを生み出して、ユーザに喜んでもらうことだったのではないか。

そもそも、ソフトウェア開発をハードウェアの生産ラインのように「工場」として扱おうとしたのが間違いだったのだ。ソフトウェア開発は、作品作りであり、取り組むこと自体にも喜びのある技芸に回帰していきたい。それが仕事技芸論なのだ。

一つのソフトウェアを作るのに必要な人材は少なくなっても、社会から求められるソフトウェアの総数は、これまで以上に増えていく。それは生成AIとかでてくる以前から言われていることだ。

これからの開発者(エンジニア)には、求められることは増えていくし、難易度は高まっていく。プロとして求められる基準は、ぐっと上がっていく。スクール出て、プログラミング言語が使える位ではプロにはならない。

だけど、その方が健全なんだと思う。そして難しい仕事はなくならない。

だからこそ、より難しいことに挑戦し、より高みを目指していくような開発者になりたい若者たちは応援したいし、サポートしていきたい。人数は多くなくても良い。ソニックガーデンで取り組んでいる活動の芯にはこれがある。

ソフトウェア開発は、少ない人数で、より多くの価値を、より楽しく生み出せるようになる。それは社会全体にとっても、素晴らしいことではないかな。

「コードを書く人」は消えても、「ソフトウェアを作る人」は生き残る。

思考メモ

コードを書く人は不要になっても、ソフトウェアを作る人はなくならない。かつてクラウドの登場でインフラとアプリの境界が溶けたように、AIは今、エンジニアの境界線を再び広げようとしている。

これから先、変化する部分と変化しない部分はどこにあるのか。

15年前、私が起業するタイミングでちょうどAWSが日本に上陸した。当時のクラウド革命は、インフラエンジニアの存亡が語られるほどの衝撃であった。しかし、実際に起きたのは「インフラエンジニアがアプリケーション開発も担う」という変化。

ソニックガーデンの起業当初にあったチームの境目は、クラウドによって消滅。インフラ担当のメンバーが自ら開発まで担う決断をしたことで、役割の壁は崩れてチームは大きく変わった。そのおかげで少ない人数で、今まで以上に大きなソフトウェアを作れるようになった。

けれど、変わらなかったのは「ソフトウェアを作る」という本質だった。顧客やユーザーがやりたいことを実現し、価値を形にする。その本質だけは、今も昔も変わっていない。

昨今のAIの登場も、これと同じ構図だと思う。単にコードを打つだけの役割は不要になるだろう。しかし、設計し、対話し、持続的に発展できるプロダクト全体を構築する「ソフトウェアを作る」その本質は変わらない。

なんだったら、作る過程が効率化されるのであれば、新技術は恩恵そのもの。提供すべき「価値」さえ明確であれば、変化を恐れる必要はないのではないか。

そして「ソフトウェアを作る人」をエンジニアと定義するなら、その役割が消えることはないだろう。

むしろ、ソフトウェアが事業の根幹を支える比重は高まり続けており、企業の規模や業態に限らず、どんな会社であってもソフトウェアが必要になってくる。需要は増すばかりだろう。

AIがすべてを解決するという極端な論調もあるが、現実はそう単純ではない。

スタートアップの初期段階ならAIだけで形にできるかもしれないが、事業が成長し、複雑性が増せば、経営者がすべてをこなすのは不可能だ。そもそも、事業が成長すれば経営者の仕事は増えるばかりで、そんな忙しい中で開発まではできない。

私はクラシコムの取締役CTOをしているけれど、AIがあるので社長や取締役が100億の企業のシステムの開発全部やれますか、というと、それは無理な話。経営者はあくまで「頼む立場」。AIを使いこなし、生産性を高めて事業を支えるのは、やはり「ソフトウェアを作る人」だろう。

そんなことすらAIで解決できる時代がくるかかも、なんてことを言い出せば、どんな大企業も社長一人でよくなる。いや、もはや投資家だけが必要で、社長すら要らないかもしれない・・・そんな風に「AIで未来はこうなる」と予測したがるけれど、予測など当たるとは思えない。

私たちがすべきは、当たらない未来予測に一喜一憂することではないはずだ。

10年、20年前の今を正確に予測できた者などおらず、予測をゴールに据えて突き進むのは、いわば「ウォーターフォール」な生き方と言える。しかし、人生には「リリースして終わり」のゴールはない。

未来が予測不能である以上、一つの未来に賭けるのはリスクでしかない。重要なのは、今この瞬間にできることを学び続け、変化に適応し続けること。

新しい機能やツールが出たら、すぐ試してみる。試せばまた何かがわかる。昨日までやっていたことが無駄になるかもしれないけれど、一歩は進んでいる。

こうした小さな変化の積み重ねこそが、どんな未来が来てもその瞬間ごとに適応できる力となるだろう。

遠くを見てジャンプするのではなく、足元から一歩ずつ。これは、開発手法としての「アジャイル」と同じ考え方。プロジェクトも、プロダクトも、そして個人の生き方も。アジャイルに変化を取り入れていくことこそが、結果として変化に強い状態を作るんじゃないかな。

ページ 1
ページ上部へ